ジョン・レノン

 上述のとおり、ジョンと言えば、ファーストの「ツイスト・アンド・シャウト」以来、シャウト系の得意なシンガーと考えられてきた。

 しかし、ジョンの歌の魅力はシャウト系に限らないというべきだろう。ジョンのバラードでの歌声に感じるたまらない切なさは何だろうか。そこにはいつもジョン特有の「節回し」がある。この「節回し」はジョンの癖だから、バラードに限らず至るところにあるのだが、とりわけバラードでは胸が締めつけられるのである。この「節回し」とは、たとえば「イン・マイ・ライフ」でいえば、「オールマイラーーアアアーイフ」の中のアアアの部分である。別のバラードとして「オール・アイヴ・ゴット・トゥ・ドゥ」にたとえれば、出だしの「ウェンエヴァ アーアーアアーーアアアイ」のアアアイの部分であり、「ウーマン」にたとえれば、サビの前の「フォーショウインミー・・ザミーニンノヴサクセーーーーエエエーーーース」のエエエの部分である。これらの部分の切なさもまた、ジョンのたまらない魅力なのである。

 では、シャウトについてはどうか。シャウトとは文字どおり叫びであり、本来は歌ではないはずだ。叫びにメロディーが感じられたらその叫びは白々しくなり、もはや叫びと呼べなくなってしまう。ポールと比較する場合、「ギヴ・ピース・ア・チャンス」が好例となる。この曲でジョンは、今でいう「ラップ」のような歌を披露しているが、これは「ラップ」のような「おしゃれな歌い方」と捉えるべきではなく、むしろ聴衆に強くメッセージを伝えるためにジョンが考えた、より効果的な歌い方だったというべきであろう。この曲の後半では、「All we are saying is give peace a chance」とコーラスと聴衆が合唱し、ジョンがアドリブでシャウトを続けるが、この構図はポールの「ヘイ・ジュード」と実は同じである。しかし、ジョンとポールではアドリブでのシャウトの解釈が異なる。「ヘイ・ジュード」の後半のシャウトでは、ポールは明らかに音程を意識しており、「ギヴ・ピース・ア・チャンス」の後半でのシャウトでジョンが全く音程を意識していないこととは対照的なのである。では、どちらが一般的であろうか。ジョンのようにシャウトで音程を意識しない人としてロバート・プラントなどもいるが、イアン・ギランや多くのメタルのシンガーはシャウトで音程を意識しているようであり、聴き手側はシャウトで音程を意識していないにもかかわらず、シンガー側としてはポール型が一般的にみえる。しかし、上述のとおり、シャウトでは音程を意識しないのがシャウトの意味として自然ではないだろうか。

 もっとも、ジョンはシャウト系の歌でのみ音程を意識しないのかと言えば、実はそうではない。もちろん、全く意識していないはずはないが、ただ、僕にはポールのように正確に音程をとろうという意識が希薄であるように見えていた。

 この違いの原因は、結局、二人の作曲観の違いにあるのではないか。そもそも作曲とは、ア・プリオリに存在する美しいメロディーを天才が見つけ出す作業(ポールは「イエスタデイ」を作曲した際、あまりにも自然にメロディーが出てきたため不安になり、ジョンに「こんな曲はなかったか?」と相談したらしいが、ここからするとこれはポールの作曲観に近いかもしれない)ではなく、凡才と天才が各自同じ土俵で思いつき(イメージ)を記録する作業にすぎないのではないか。これを前提にすれば、歌のメロディーを創る作業とは、頭の中に浮かんだ漠然としたイメージに、音程・コードなどを試験的にあてはめる作業にすぎず、これを敷衍すれば、ギターのオブリガードもドラムのフィルインも同じということになろう。すなわち、歌のメロディーとは、実はギターのオブリガードやドラムのフィルインと同じ次元のものであり、ただ、歌のメロディーに特別に与えられた地位・役割として、他の曲との識別機能があるということではないか、歌のメロディーなどその程度のものという認識がジョンにはあるのではないか、と思えてならないのである(ジョンが自覚していたかどうかは別であるが)。以前に何かの本で読んだのだが、ジョンは、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」について「もっと凄い曲になると思っていた」らしい。この発言は、ジョンの頭の中に浮かんだ(思いついた)「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のイメージが、実体化の段階で上手く表現できなかったことを述べたものと思われる。しかし、この発言は、ジョンの作曲観が垣間見られて実に面白いと思う。

 では、実際にジョンがバラードで正確な音程を意識しているかを見てみよう。ビートルズ時代の曲はダブルトラックが多くて判りにくいので、ストリップトダウンリミックスの「ダブル・ファンタジー」(これはオーヴァーダビングを極限まで削ぎ落としてジョンの歌を際立たせたもので、ファン必携のリミックスだと思う〔この点、ヨーコへの批判が強いが、この批判には個別に僕から反論したい〕)から「スターティング・オーヴァー」と「ウォッチング・ザ・ホイールズ」を聴いてみると、歌の音程はおかしくない。ただ、ジョンのメロディーはポールのように芯が通っておらず、不安定なのだ。よく聴いてみると、どちらの曲もジョンはメロディーを外していないが、「スターティング・オーヴァー」の出だしと最後の「somewhere~」の部分や「ウォッチング・ザ・ホイールズ」最後の「アイジャスハットゥーーレリゴオウ」のトゥーーの部分などは、仮に半音ずれても(後者では上下のいずれに半音ずれてもブルーノート)スケール上にあって問題がないことになっているのである。おそらくこれは偶然ではない。よくジャズピアニストがポップスを途中からジャズに崩す演奏をするが、あれは結局リズムを崩すとともに、トニックでのメジャースケールの曲であれば、それをブルーノート等にスケールチェンジして演奏しているところ、ジョンはこれを最初からイメージの中でやっているのではないか(ウォッチング・ザ・ホイールズのエンディングのピアノを注意深く聴くと、トニックのCメジャーがC+9に崩されており、ジョンの歌メロもトニックCの短三度を含んでいる)。だから、ジョンのメロディーは、バラード、シャウト系を問わず、音程があいまいになっても不自然に聴こえないのではないだろうか。

 ところで、レノン‐マッカートニーのクレジットが必ずしも二人の共作を意味しないことは有名であり、どの曲がどちらの曲であるかについて、二人の間でほとんど争いはないとされるが、「イン・マイ・ライフ」はジョンとポールがいずれも自分の曲だと主張しているらしい。この点、以前の僕は、「イン・マイ・ライフ」はメロディーの一部があいまいであること(①)、ジョン特有の「節回し」が多くあること(②)などから、ジョンの曲で間違いなかろうと思っていた。

 しかし、上のポールのところで述べたとおり、たとえポールの曲であっても、実際に歌ったのがジョンであれば、シンガーたるジョンの解釈が最優先されるため、①②の理由はポールの曲であることを否定する理由とならない。今となっては真実を知る由もないが。